岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜

おかっぱのヘアスタイルと赤い着物。誰もが見覚えのある「麗子像」で知られる岸田劉生とその父である吟香、娘の麗子という親子3代にわたる物語をたどる展覧会が、世田谷美術館で開催されています。特に吟香に関する資料が充実しており、文明開化の明治期を精力的に生き抜いた人物伝としても楽しめます。
<会期:2014年2月8日~4月6日>

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岸田吟香(1833~1905)は、31歳のとき眼病を患い、横浜にてアメリカの医師へボンに液体目薬を処方されます。その効用に驚き、自ら「精錡水」として製造販売にのりだします。吟香が先駆的なのは、「精錡水」取次販売所の看板を木地に金文字に統一し、今でいうCIを行っていたこと。さらに、美術家を起用した広告戦略にも取り組みました。明治の広重と呼ばれた小林清親(1847~1915)が描いた引札(広告チラシ)も展示されています。

その収益は、訓盲院設立のための寄付や美術家の支援にあて、「コレラ病予防の心得」などを作成して、民間の疾病に対する意識向上にも尽力しました。その他にも、和英辞書編纂や新聞の発行、東京日日新聞の主筆など、めざましい活躍ぶりです。意欲旺盛な実業家でありながら、前述の小林清親や洋画家である高橋由一(1828~1894)ら美術家と交流し、公私にわたり支援したことは、劉生の父たる所以かもしれません。

薬舗「楽善堂」を銀座に構えたことから、劉生(1891~1929)は銀座生まれの銀座育ち。当時の銀座は、レンガ建築のモダンな町並みでした。銀座の風景を描いた油彩(1910頃)も残っていますが、東京日日新聞に「新古細句銀座通」(1927)と題して、自画の挿絵付で随筆を連載していたことに驚きました。文章についても、非凡な才能を発揮していたのですね。また、結核療養中に描くようになった静物画も、「麗子像」に匹敵する存在感に満ちています。尿毒症とのことですが、38歳の若さで早世したのが惜しまれます。

会場では、入ってすぐのスペースに、複数の「麗子像」が展示されています。一度みたら忘れられない存在感を放つ作品ですが、当の麗子(1914~1962)は、“あの麗子”と見られ続けることに、どのように折り合いをつけて生きていたのでしょうか。劉生の遺した日記を精読し、父の評伝を書き上げてすぐの急逝も、“あの麗子”として象徴的な出来事だと感じます。会場の最後には、1960年に撮影された、洋装ツーピースの麗子のポートレートが展示されていますが、「麗子像」に描かれた表情とそっくりです。「麗子像」には、その後の人生まで凝縮されていたかのような不思議な思いにとらわれました。

展覧会のホームページはこちらから
世田谷美術館

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

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